私が人事の職に就いたのは1990年代初めでしたが、当時、人事の顧客認識は経営と社員の2軸で考えていればよかったように思います。ソニーには組合がありましたが、まさに労使交渉という経営と社員(組合)間の調整が人事部の大きな役割の1つであったように思います。
ところがバブル経済がはじけ、日本が全体的に成長を遂げる事ができた高度成長期が終焉を迎えた頃から会社経営にも大きな変化の波が押し寄せてきました。その1つにカンパニー制という組織形態がありますが、端的にいえば、環境変化が激しく予測できない状況下において事業の現場に近いところで迅速な意思決定を行うべくカンパニーという事業別の独立的な組織体を組成、経営トップからその責任者に大幅に権限を委譲する組織形態が多くの会社で導入されるようになりました。私自身は1990年代後半にカンパニー制導入のはしりとなったソニー、2000年代の初めにはベネッセにてカンパニー制導入タイミングで人事の職に就いており、環境に応じた柔軟な組織運営や今後の人事のあり方について大いに考えを深める機会を得ました。それらを模索する中、一橋大学の楠木先生の戦略論、組織論などを大いに参考にさせていただくようになったのもこの頃からでした。
カンパニー制導入に伴い人事の顧客認識も大きな変容を求められました。事業の現場で迅速な意識決定が可能となる仕組みを整えたことは事業運営上、多大なメリットをもたらしたものの、一方で組織運営においては人事としてより複雑な判断が求められ、時には経営、事業、そして社員の利害調整のため苦悩せざるを得ない状況に至ったからです。それまでは少なくとも経営≒事業とシンプルに考えていればよかったのですが、カンパニー制導入以降、経営トップが考える会社の全体最適と事業責任者が考える事業の個別最適のベクトルの差異が大きくなり、時には利害すら対立するようになっていったのです。結果的に人事としても顧客認識を経営・社員の2軸から経営・事業・社員のトライアングルで考えざるを得なくなっていきました。
人事における利害対立の例としては、人がカンパニーごとに囲い込まれる現象が多く見られるようになったことがあげられます。ソニーではカンパニー制導入以前、グループ内にエレクトロニクスから映画や音楽などのエンタテイメントに至るまで多様な事業フィールドを有すること、また創業者の盛田昭夫氏が主導した社内公募性の活発な運用をはじめとした人の組織を跨ぐ異動が非常に活発で人材の流動性を大いに担保できていました。結果として多くの人材に多様な経験値を提供し、優秀な人材を次々と輩出できる組織基盤を有していた点がソニーの人事上のコアコンピタンスの1つであったと私は考えています。ところがカンパニー制導入以降、事業現場の声が大きくなったことで人材の囲い込みが始まり、その流動性が損なわれ、結果的に長期的な人材育成という会社の全体最適が実現しづらい状況を招いてしまったのです。もちろんカンパニーごとによりフィットした専門的な人材を独自に採用したり、育成する、機動的な対応ができるようになったことは非常に良かった点ですが、同時に中長期的に経営を担う人材を育成する機能は弱体化しやすいという功罪あわせ持つのがカンパニー制という組織の特性であったように思います。人事としては、もっと早くこのことを認識し、メリットの最大化、デメリットの極小化をなすべく事前に手を打つべきであったのですが、残念ながら我、至らずでした。。
何れにしても今後のVUCAの時代に適応していくためにも従前の組織形態に戻ることは無いでしょうし、カンパニー制やさらに新たな組織形態の模索は必須です。人事としてもより複雑化する組織形態におけるメリット、デメリットをあらかじめ深く洞察した上で、何をすべきか考え、常に最適なバランスをとるべく行動していくことが肝要なのではないかと思います。これから先も新たな組織形態が登場することは間違いないでしょうが、ただ当面の間、人事の顧客認識としては、「経営・事業・社員のトライアングル」を念頭に、その経営環境や時代背景に応じ、いずれに軸足を置くのが最適なバランスとなるかを常に考え続けることが、私たち人事に求められることではないかと考える次第です。
昨今、人事はタレントマネジメント、グローバル対応、働き方改革、ダイバーシティ、1on1ミーティングなどトレンド的なテーマやタスクにフォーカスし過ぎているような気がしています。もちろんいずれも大切なことではありますが、やはり人事の原点は常に誰が顧客かを考え、その顧客に向け何が最善かを思案し、アクションすることにフォーカスすべきではないでしょうか。何より組織は生き物ですので、フォーカスすべき顧客は流動的です。ある意味、人事としての醍醐味もここにあるように感じます。つまるところ人事は、顧客である会社の成長、事業の成長、そして個の成長を、流動的な経営環境下でいかにバランスさせ、ひいては会社全体の成長の最大化に貢献することが求められている、と私は考えています。