人事と政治性

 これまで自身が人事の責任者として、多くの経営者や幹部層と仕事をともにしていくなか、組織を動かすためには「政治性」をいかにうまくマネジメントするかがとても重要であることを実感してきました。特に企業規模が大きくなればなるほど人と組織の複雑性が増し、その傾向はさらに強まるようです。元来、人事業務を遂行する上では「合理性」「情緒性」「政治性」、この3つをいかにバランスさせるかが肝要ですが、「政治性」に関しては特に職責が上がるにつれそのウェイトが飛躍的に大きくなるとの感覚を強くもっています。

 私は若かりし頃、仕事の基本は「合理性」との意識が強過ぎ、周りの賛同を得られず失敗を重ねた経験が多くあります。自身では相当に熟慮した企画で自信をもって臨んだにも関わらず何故かその企画が通らず撃沈してしまうのです。にもかかわらず、その際は企画のクォリティが不十分と独りよがりに錯覚し、さらにブラッシュアップを続けたものの何度やっても結果は同じことでした。それらの失敗経験を通じ、初めて人や組織における「情緒性」の大切さに気付かされたのでした。その後「情緒性」を意識し始めたことで、今度は提案が受け入れられるようになり、ようやくビジネスパーソンとして仕事の仕方を会得できたと感慨に浸ったのもこの頃(20代後半)でした。私見ですが担当者レベルであれば「合理性」と「情緒性」の2つの視点をあわせ持ちさえすれば、相応のレベルで仕事ができることは間違いないと思います。
 しかしながら私はその後、課長や部長などマネジメント的な役割を担い始めてから「合理性」や「情緒性」を十分に考慮したにもかかわらず、どうにもうまく物事を進められないケースが増え、またしても何が足りないのか、どこに問題があるのか、試行錯誤を繰り返さざるを得ない状況に陥ってしまったのでした。
 幾度となく経験してきた苦い思い出の数々ですが、例えばその時の構図はこうでした。経営会議で人事としての企画提案を上程した際、事前の社長とのネゴシエーションや当日の議場においても始めは役員からの反対意見はほとんどなく、質問が2、3出た程度でしたので概ね賛同を得られ無事終了と思った矢先、ある人の発言から大きく流れが変わってしまったのです。その人とは会長(前社長)でした。役職上は代表権もなく既に形式的には大きな権限はないはずですが、未だ親派も多く社内では大きな影響力を持っていたのでした。結局は社長も会長の賛同なくしてはスムーズに決裁できず、再度、上程せざるを得なくなり、その時はこれこそ俗にいう院政ではないかと悶々としたものでした。そのため社内で計画を推し進めるには社長よりも先に会長やその親派にネゴする必要があり、まさしく政治的な動きが必要とされていたのでした。
 このように組織においては、シンプルに社長や役員への忖度であったり、はたまた派閥的な動き、昇進のためのライバル争い、組織間で様々に入り組んだ利害関係、長い物には巻かれろ的な社風などなど、「政治性」の考慮なくして物事が進まないことが多々あります。正直、 私は政治的な動きが得意ではありませんし、もっと正確に言えば好きではありません。しかしながら人が3人集まればそこに政治が生じると言われるほどで「政治性」をゼロにすることはもとより無理な話ですから、うまくつきあい対応するしかないのでしょう。ミスミの三枝匡氏は経営者は時に「政治性」を打破するために腕力を振るう必要があるとしばしばおっしゃっています。確かにその通りと思いますが、実感としては腕力を使えるリーダーは周りからある種の畏れを抱かれ、結果としてその意を忖度する新たな取り巻きが出現します。つまり新たな「政治性」が発生してしまうことであり、まさに政治はきりのない世界と痛感させられることしきりです。
 それではこのような「政治性」と向き合う際、人事としてはどのような意識や振る舞い、スタンスが求められるのでしょう。私は「政治性」は社員からすればひたすらわかりにくい存在で、ともすれば不信感や不公平感の醸成につながるリスキーなものと捉えています。人事は組織編成や人事異動に大きく関与しますし、ましてや人事責任者ともなれば密室人事やブラックボックスなど社内政治の象徴的な存在と見做されることは避けられないでしょう。ついては人事はできる限り自らが起点となる「政治性」に留意し、できる限りそれを最小化すべきと私は考えます。
 とはいえ具体的に何をどのようにすればよいか、私もこれまでいろいろと試行錯誤してきましたが、やはり画期的な方法があるわけではなく、少しでもよかれと思うことを地道に意識し続けるしかないような気がしています。
 一般的には、できるだけ情報をオープンにすることや常にアカウンタビリティ(説明責任)を発揮することなどがあげられるでしょう。もちろんそれらは有効な策とは思いますが、私はさらに日常の何気ない領域においても留意すべきことが多々あると思います。例えばその1つに、社員との距離感をいかに適度に保つか、端的にはいかに近過ぎる人、遠過ぎる人をつくらないようにするかがあります。これは以前、上司であった人事部長が社員の結婚式には出席しない主義とおっしゃっていたことがきっかけです。当初、せっかくのおめでたい機会なのだから出席してあげればよいのにと思ったのですが、その人事部長がおっしゃるに、結婚式に出席することはその人と懇意であることを周りに示すことになり、人事としては好ましくないと。それが故に誰の結婚式にも出席しないようにしているとのことでした。確かに結婚式に出席した人がもし昇進や昇格した場合、あの人は人事部長と仲がよいからとの噂がたっても不思議ではありません。距離感の近い人に何らかのポジティブな事象が生じれば、それは贔屓と捉えられ、本来、人事として最も大切にすべきフェアネスを毀損してしまうリスクがあることを、私たちは認識しておくべきなのでしょう。
 以来、私もそのようなことをできる限り招かないよう諸々意識することになります。例えば些末ですが、人に呼びかける際、私はニックネームで呼ぶことや名字でなく名前で呼ぶことを控えています。それらは相手との近しさの表れですので、私は誰に対しても基本“さん”付けでしか呼ばないようにしているのです。もちろん若干よそよそしい気がしないではありませんが、かと言って皆をニックネームで呼ぶわけにもいかず、致し方ないことかと。
 一方で一定の距離感をとろうとする余り、逆に遠ざけ過ぎないようにも気をつけねばなりません。社員との距離が遠過ぎればいらぬ遠心力が働きますし、政治以前に適切なコミュニケーションの阻害要因となり人事としての本来の役割を果たせなくなってしまうからです。その意味で人事と社員との距離感について、何を以って適切とするか非常に判断が難しくもありますが、私はこのように考えています。社員がもし自分に何か問題が生じ誰かに相談しようと考えた時、真っ先に人事担当者の顔が浮かぶ、そのような存在であることが望ましい、と私は考えます。そのために意識しているのは、またも些末なことですが日々の挨拶です。朝の挨拶や廊下ですれ違う際の挨拶を相手の目をきちんと見て笑顔で行うようにしています。他愛ないことかもしれませんが、たったこれだけのことでも、いざという時に自身の顔が浮かぶ、そんな存在感の布石にはなるはずです。
 以上、極めて稚拙なことかもしれませんが、このようなことにまで気を配らなければ人事として「政治性」をミニマイズすることは難しいのです。元来、政治とは私たち一人ひとり、異なる人間で異なる考えや行動をするために起こる差異に対して調整をかけていくことです。互いに異なる自由を認め合い、生きていく営みである以上、組織の中において政治がなくなることはありません。しかしながらその過度な調整は健全な組織運営の妨げになるリスクを包含していることもまた然りです。人事としては、政治と共存するだけでなく、それを最小化するために注意を払わなければならないのです。別途ブログでコメントした人事に必要な「コンフリクトのマネジメント」も、やはり「政治性」を抜きにしては語れませんが、このような時にも極力、政治に頼らずコンフリクトをコントロールできれば、まさしくプロ中のプロ人事と言えるのではないでしょうか。少しでもその域に近づけるよう日々精進しよう、そう考える今日この頃です。

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